LGBTと「児童ポルノ」規制に対する批判 -「児童の性的搾取」は妥当な概念なのか -

 LGBT概念と児童ポルノに対する批判 -「児童の性的搾取」は妥当な概念なのか -|椎名裕仁|note

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目次

  1. 初めに

  2. 「児童ポルノ」規制は正しいか

  3. 「児童の性的搾取」概念に対する批判

  4. 性的指向と性自認に妥当性はあるのか?(「同性愛は性的指向だが、小児性愛は性的嗜好だ」という言説への反論も兼ねて)

  5. 最後に

    最近、「LGBT」と言う言葉が一種の流行病(新型コロナウイルスのことではない)のように持ち上げられています。コロナ禍を受け、オンラインで開催されたレインボープライドの盛り上がりや、関連書籍が数多く発売されていることからも垣間見えます。松浦大悟氏や、その他の方も書かれていますが、本来ならば権利を獲得する為の運動だった筈の、LGBT運動は、左翼の自己満足(オナニー)運動と化しており、その結果性的少数者に寄り添っているようでいて、当事者からですら異論が噴出するような、斜め上の運動と化しています。現在日本を含む世界中で大論争になっている(性別適合手術をしていない)トランスジェンダー女性(男性として生まれたが、性自認は女性の人を広く指す呼称)による女子トイレや女子更衣室、女湯の使用、女子スポーツへの参加を巡る論争やセルフID(自己申告だけでの性別変更)は典型的な例です。然し、それらの活動を推し進めた活動家も、小児性愛についてはだんまりを決め込んでいますし、それに反対する一井の人間やフェミニスト達も、「性的指向」と「性自認」の神話に囚われ、伝統的な性規範を再生産しています。私はそのことについて異論を唱えたいのです。

私は、性自認は社会の刷り込み、つまりまやかしであり、性的指向(嗜好)もその為流動的であると考えています。是を先に述べておきます。

「児童ポルノ」規制は正しいか

日本の児童ポルノ禁止法は、実際の子供を保護するというよりは、道徳的な見地から未成年者に禁圧を強いる前近代的なものになっていると考えています。1996年頃から表面化した「援助交際」によるモラル・パニックに、ECPAT(ストップ子ども買春の会)などに日本がアジアでの主要な買春相手国と名指しされ(最も、実際は英米独が多かったようですが)、日本が海外によく見られたいが為の取り繕いとしての側面もありますが、未来の象徴としての子供の保護(この考え自体は、例えば、環境活動家のグレタ・トゥーンベリも心の中に持っています。「未来」というキーワードを頻繁に使用していますから)という視点が濃いでしょう。「児童ポルノ」論争は大人達の政治ゲームのカードとなり、結果的に言論、表現の自由を侵害する結果となっています。例を挙げると、2000年代に沢渡朔の『少女アリス』などの昭和に発行された少女ヌード写真集は国会図書館でも閲覧禁止になっています (https://www.excite.co.jp/news/article/Otapol_201406_post_917/)し、2019年位からジュニアアイドルのDVDが軒並み販売停止になっています。

そもそも時代背景として、米国でこの言葉が使われ始めた1970年代、インターネットは当然ながら存在せず、またカメラの敷居が現代よりも高かった時代に性的虐待の場面を態々撮影する人間がいるとは到底思えません。iPhoneが2007年に発売されたことに端を発する「スマートフォンの登場により個人でもクオリティの高い写真をカジュアルに撮れる時代」とは余りにも違いすぎて、比較対象として不適切ですし、時代背景も違いすぎます。アメリカも、昔からそうだった訳ではありません。アメリカで児童ポルノ法が制定されたのは1977年と比較的最近であり、第三波フェミニストのパトリック・カリフィアは、この問題の背景を「同性愛嫌悪と、子供の性に関わる一種のモラル・パニック」だとしています。然し私は、西洋的な考え方が一因であると考えています。

薬物依存症の回復施設の設立者でもあった女医・ジュディアンヌ・デンセン・ガーバーは、薬物依存症の支援者でありながら偏見を持っており、彼女は、「子供時代の性行為が薬物依存症と売春の主な原因」であり、両者が自身の子供を性的に虐待すると考えていました。彼女は娼婦と薬物依存症者さえ碌に区別をしておらず、更には施設では十代の少女に心理的・性的虐待が行われていたといいます。当時下院議員であったデイル・E・キルディと、ジョン・W・マーフィーは、例え合意の下であっても、「子供 (当時は16歳未満)」を性的行為に従事させることを重罪とする法案を提案した結果、大勢の小児性愛者が警察の囮捜査により逮捕されましたが、その法案を通過させた一人であるジョン・W・マーフィーはその後、70年代末にFBIが行った囮捜査であるアブスキャムで収賄があったとして名前が挙げられる事態にまでなりました (出典:『パブリック・セックス 挑発するラディカルな性』パット・カリフィア著、東玲子訳、英語版Wikipedia)。

その後、児童ポルノ法は、強引な捜査による多くの推定有罪(https://www.prisonlegalnews.org/news/2010/nov/15/child-porn-investigations-may-snare-the-innocent/)を背負い、今に存在しています。

「児童の性的搾取」概念に対する批判

「児童の性的搾取」の概念は、ジュディアンヌ・デンセン・ガーバーによって作られた定義であり、世の中に広まっていきましたが、概念は一人歩きし、公的機関によるものでさえその定義は判然としないものになりました。

ここから様々な定義を引用していきます。

Twitterの「児童の性的搾取に関するポリシー」 (https://help.twitter.com/ja/rules-and-policies/sexual-exploitation-policy)の日本語版では:《

 性的に露骨な、または性的な暗示を含む行為をする児童の視覚的な描写

 性的に露骨な状況または性的に露骨な行為をする児童のイラスト、

コンピューターなどで作成した写実的な描写

 既知または未知の未成年者についての性的な言及や、

彼らに向けられた性的な言及》

Facebookのコミュニティ規定でも、具体的な表現を用いて、「7. 児童に対する性的搾取、虐待、児童のヌード」(https://www.facebook.com/communitystandards/child_nudity_sexual_exploitation)と個別のページを作っています。

警察庁の定義では:

児童に対し、自己の性的好奇心を満たす目的又は自己若しくは第三者の利益を図る目的で、児童買春、児童ポルノの製造その他の児童に性的な被害を与える犯罪行為をすること及び児童の性に着目した形態の営業を行うことにより児童福祉法第60条に該当する行為をすること並びにこれらに類する行為をすることをいう。

(令和2年度警察白書60頁より引用)

政府の国連職員による性的虐待の資料を提示してみると:

性的搾取とは,国連事務総長総会 ST/SGB/2003/13において定義されるように, (中略)性的な目的のために,地位の脆弱性,権力格差又は信頼を実際に濫用すること又はその試みをいい,そこには他者の性的搾取による金銭的,社会的または政治的な利得行為も含まれる。これは広義語であり,取引としての性交渉,取引としての性行為の教唆,搾取的な関係も含む。(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000488695.pdfより引用)

とあるように、機関や団体などにより定義がまちまちで、中には広範囲のものもあります。例えば国連事務総長総会の定義では、かなりグレーゾーンな領域も含む事がお判りでしょう。これには抜け穴もあります。例えば、「搾取的な関係」をどう定義するのかと言うことなのですが、これについて軽く述べていきます。

『ルポ・精神病棟』という本をご存知でしょうか。この本は1971年に初版が発行され、概要としては朝日新聞社の記者がアルコール依存症を装って精神科病院に潜入し、凄惨な実態を伝えたルポルタージュです。今現在はそのような事は殆どありませんが、精神福祉の基盤がまだ整っていなかった時代にはこう言うこともあったのです。但し、当時を生きた人間を現代の価値観で「搾取されている」と断言できるのでしょうか。何故なら当時の精神科病院は行く当てがない人間のセーフティーネットの側面もあり、「これが普通」「社会で差別されるよりかはまし」と思っていたのかもしれないのですから。今でこそかなり改善されていますが、90年代からゼロ年代に掛けて東南アジアや南米で大人に売春をさせられる子供達が報じられていました。確かに強制売春は、犯罪です。それは大人も子供も変わりありません。只私が思うのは、言い方は悪いのですが、子供たちを一概にNGOなどの大人が「搾取」と決めつけられないのではないか。『ルポ・精神病棟』の患者たちと同じく、「搾取」されているかどうかは本人にしか分からないわけですから。物事には、グレーなところが確実にあるのです。

性的指向と性自認に妥当性はあるのか?(「同性愛は性的指向だが、小児性愛は性的嗜好だ」という言説への反論も兼ねて)

一般的には、人間には身体的性別、性的指向、性自認、性表現があるとされています(参考:https://www.city.shizuoka.lg.jp/003_000001_00047.html)。

然し、それらはどこまで妥当であり、何処から妥当とは言えなくなるでしょうか。それは一概に言えないと思います。

例えば、統合失調症スペクトラム障害圏や、解離性同一症といった精神疾患、精神疾患ではないですが、自閉スペクトラム症の感覚過敏や性暴力、いじめのトラウマによる性別違和、男性の性暴力サバイバーによるセクシュアリティの揺らぎが考えられます。

仮に、過去の性被害により自身のセクシュアリティが揺らいでいる性暴力サバイバー(特に男性に多いのですが)が「クエスチョニング」を名乗ったらどうするべきか?

個別対応が究極の最善の選択であるというのは前提ですが、私ならセクシュアリティの受容や、LGBTの枠に取り込むより先に、冷静になって考えさせると思います。実際にセクシュアリティの揺らぎをそのまま「性自認」とカウントしてしまった事例(https://note.com/yousayblah/n/n31008d9032f3)がありますので(欧米ではこれが行き過ぎてカオスと化している)。

性自認はまやかしです。

ほんの2~30年前までは、「男らしく」「女らしく」というジェンダー規範がまだまだ存在した時代があり、そのため性自認もそれに従って形作られて行きました。然しながら、今はそのようなジェンダー規範は無効化しています。これを批判する一部フェミニスト達は、必ずと言っていいほど「ジェンダー」を攻撃する傾向にあります。もしあなたや彼や彼女やあの人("they"の対応語としての)が従来の性規範の破壊を目論むなら、性的指向と性自認の神話にも目を向けてもらいたいのです。考えてみると当然でしょう。自身を「男性」「女性」と規定することにより、ゲイやレズビアンは成立します。

小児性愛は様々な人間によって「性的嗜好」とよくラベリングされます。確かに、後天的に(https://karapaia.com/archives/52187499.html、https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/12633158/)小児性愛的な欲望が生じるケースは存在します。然し、先天的な小児性愛者が存在する(https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4478390/)という話もまた事実です。また最近では相違する見解もあり、例としてイギリスの新聞・「インディペンデント」紙は、「小児性愛は同性愛や異性愛と同じ性的指向である」との心理学者の見解」という記事を出しています(https://www.independent.co.uk/news/paedophilia-sexual-orientation-straight-gay-criminal-psychologist-child-sex-abuse-a6965956.html)。更に意見を述べますと、かつてはLGBT団体でもペドフィリア団体と共闘していた時期があり、LGBT団体の一つであるILGA (国際レズビアン・ゲイ協会)は、初期こそラディカルな性の解放やそれに伴う権利獲得を志向した団体でしたが、時を経ていくごとに政治色が濃くなっていきました。その一つを紹介します。かつてILGAが国連に働きかけ、その結果、国連はILGAを上記の理由で承認せず、かつILGA内部の多数のレズビアンが「女性にとってセックスは性暴力と切り離せない」といったフェミニズム的な理由で反対した為に、本意とはいえないまでも除名したという経緯があります(出典:『実践するセクシュアリティ』風間 孝、河口 和也、キース ヴィンセント編、『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里共著、『LGBTの不都合な真実』松浦大悟著)。補足しますと、NAMBLAの会員の大半は未成年の少年との性行為を求めていたわけではなく、イデオロギー上の支持者だったのです。先ほど述べた論文でもありますが、小児性愛についてはまだ一貫した見解がありませんが、先天的か後天的かというニワトリタマゴ論争のような「どちらが先なのか」とはまだまだ言えないというのが妥当ではないでしょうか。

最後に

「児童ポルノ」は実際の子供の安全に関する話ではなく(実際に「コミックLO」などの成人雑誌や幼女や少女を象ったラブドールまで糾弾されていることが、この問題の特殊性を象徴しています)、私たちの主体性や、表象の捉え方に関する問題であると私は考えています。例えばフィクションの児童ポルノは実際の性犯罪に影響を与えないという事がデンマークでの調査などで判明しています。現在のロリ漫画の歴史を辿ってみても、1979年に吾妻ひでおが沖由佳雄らと発行・執筆した同人誌『シベール』に由来し (同年に『リトルプリテンダーズ 小さなおすまし屋さんたち』 (撮影:山本隆夫 ミリオン出版)も発売され、この少女ヌード写真集のヒットにより、他社も追従するようになり、ロリコンブームが形作られていった (『日本エロ本全史』安田理央著、83頁)、

『シベール』は、後のエロ漫画のスタイルを「劇画のリアルな成人女性のエロ」から「アニメチックな少女」に劇的に変化させ、それらが2000年代に入り都条例の「非実在青少年」、レイプレイ騒動に繋がり今日に至る訳です。

当初幼児やティーンのヌード位しか存在しなかった(『性表現の刑事規制』という書籍にも、数行ですが同様の記述があります。ページ数は忘れてしまいましたが…)「児童ポルノ」は、実際の「児童性虐待記録物」に変化し、地下に潜り、より酷い物になるという皮肉な結果と化しています。勿論、子供を適切に保護するための対策は必要ですが、それが行き過ぎて過剰な規制となり、終いには社会がこの問題を直視したがらない始末です(参考:https://www.dosomething.org/us/facts/11-facts-about-child-abuse)。最後に、こんな調査があることを付け加えさせてください。『青少年の性行動はどう変わってきたか 全国調査にみる40年間』という書籍では、青少年女子の性被害においては、露出狂以外の被害経験は、性のイメージにプラスの影響を与えていることが明らかとなっていることが示されています(男子は一部の被害のみに影響が見られた)。勿論これが全てだとは言いませんが、相反する調査があることも知っておくべきでしょう。

もっぱら関係ないですが(強いて言えばロスバードは著書『自由の倫理学』で子供の権利について言及している)、オーストリアオーストリア学派の経済学者であり、リバタリアンであるマレー・ロスバードの言葉を引用します。

「それゆえ我々は、すでに誕生のときから、親の所有権は絶対的なものではなく、「受託者」あるいは後見人としてのものが、と言わなければならない (『自由の倫理学 リバタリアニズムの理論体系』マリー・ロスバード著、森村進訳、118頁)」

今の法体系での親権は強すぎます。強すぎるがゆえに、逆に子供の自己決定権を蔑ろにします。子供は、自己決定権を持ち、一人の人格を持つ存在であると同時に、性的な存在であることを選び取ることも出来る存在です。

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