気候危機に潜む未来可能性について

このblogに書く事では無いかもしれないが (本当なら性論考ブログの筈だが、考えている事が有るので御手数だが付き合い願いたい。

気候変動についての活動を行っている、グレタ・トゥンベリ氏の著書『No One Is Too Small To Make a Difference』を読んだ。

本稿は、その感想と気候変動 (気候危機について思う事を徒然と書いていく。


先ず、本の感想について。

私はこれを読んで、「こんなシンプルな英文で通じるのだ」と凄く感心したし、もっと英語に関して力を抜いた方が良いのだなとも思った。

この辺りについて余り話を巡らすと、教育の問題になり、テーマとズレてくるのでこの辺りで辞めておくが、内容は極端ではあるが、確固たるエビデンスに基づいている。

もっとこの手の書き手が日本にも存在すればいいと思うし、石川優実なんかのフェミ系が代表例だが、最近の人文系の人は数字が読めないバカが多い。

バカとは言い過ぎかも知れない。然し本当に文章や文脈が読めないし、統計学も勉強して居ない。

大学の経済学部でも、高校数学は学ぶし(実際私の母親は経済学部で学んでいるが、それに従い、数学を学び直した。私も釣られて数学を学んだ)、そのレベルの教養を知りながら無視しているのか、単に疎いのか。

つまり無知だ。グレタの極端さについては後述するにせよ、彼女がこれだけのエビデンスに従って発信している事はもっと評価されていいと思う。

只、彼女の発想は的を得ているが、極端ではある。そこが具体的に行動に出ない人が居る所以だろうし、彼女の弱点だ。

例えば、車を止めろなんて言えば北陸の人間は困ってしまうし、発展途上国の人も困ることになってしまう。

私は環境問題は資本主義の抜け穴から生じると思っていて、そこの抜け穴を埋め合わせる資本主義も必要だとは思う。

只、福祉国家には反対する。何故かと言えば、私はリバタリアンだし、税金という形で巻上げた金で生活保護(誤解を招かぬようにいえば、生活保護自体に反対なのではなく、制度に反対。そもそも私も自立の練習の為に生活保護を受けています。生活保護受給者も一枚岩ではありませんやベーシックインカム、福祉を行うのは感情的に耐え難い。

気候危機の話に戻そう。グレタの主張は一理あるし、もっと大真面目に捉えられるべきだと思う側面もある。

只、彼女をバカ推しするマスメディアや活動家を見ると、少し前の久保建英や千葉すずをどうしても連想させてしまうのだ。

アスリートと環境活動家と言った違いはあれど、ここで述べている固有名詞は皆、若くして注目された人間だ。

未来の可能性に期待するのは分かるが、それは「再生産未来主義」、もっと言えば人類はセックスして子供を作る前提にある。

グレタはそれが分かっていない。環境活動家であるならば、最低でもそれは自覚的であるべきだ。

そもそも環境活動自体、その要素があると言っていい。だからグレタに限らない問題と考えている。

彼等を持ち上げるメディアもそうであるが、我々は、未来について少しだけでも良いので自覚的であるべきかも知れない。

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