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LGBTと「児童ポルノ」規制に対する批判 -「児童の性的搾取」は妥当な概念なのか -

  LGBT概念と児童ポルノに対する批判 -「児童の性的搾取」は妥当な概念なのか -|椎名裕仁|note こちらにも載せていますので、スキをお願いいたします。 目次 初めに 「児童ポルノ」規制は正しいか 「児童の性的搾取」概念に対する批判 性的指向と性自認に妥当性はあるのか?(「同性愛は性的指向だが、小児性愛は性的嗜好だ」という言説への反論も兼ねて) 最後に 最近、「LGBT」と言う言葉が一種の流行病(新型コロナウイルスのことではない)のように持ち上げられています。コロナ禍を受け、オンラインで開催されたレインボープライドの盛り上がりや、関連書籍が数多く発売されていることからも垣間見えます。松浦大悟氏や、その他の方も書かれていますが、本来ならば権利を獲得する為の運動だった筈の、LGBT運動は、左翼の自己満足(オナニー)運動と化しており、その結果性的少数者に寄り添っているようでいて、当事者からですら異論が噴出するような、斜め上の運動と化しています。現在日本を含む世界中で大論争になっている(性別適合手術をしていない)トランスジェンダー女性(男性として生まれたが、性自認は女性の人を広く指す呼称)による女子トイレや女子更衣室、女湯の使用、女子スポーツへの参加を巡る論争やセルフID(自己申告だけでの性別変更)は典型的な例です。然し、それらの活動を推し進めた活動家も、小児性愛についてはだんまりを決め込んでいますし、それに反対する一井の人間やフェミニスト達も、「性的指向」と「性自認」の神話に囚われ、伝統的な性規範を再生産しています。私はそのことについて異論を唱えたいのです。 私は、性自認は社会の刷り込み、つまりまやかしであり、性的指向(嗜好)もその為流動的であると考えています。是を先に述べておきます。 「児童ポルノ」規制は正しいか 日本の児童ポルノ禁止法は、実際の子供を保護するというよりは、道徳的な見地から未成年者に禁圧を強いる前近代的なものになっていると考えています。1996年頃から表面化した「援助交際」によるモラル・パニックに、ECPAT(ストップ子ども買春の会)などに日本がアジアでの主要な買春相手国と名指しされ(最も、実際は英米独が多かったようですが)、日本が海外によく見られたいが為の取り繕いとしての側面もありますが、未来の象徴としての子供の保護(この考え自体は、例えば、環境

気候危機に潜む未来可能性について

この blog に書く事では無いかもしれないが  ( 本当なら性論考ブログの筈だが )  、考えている事が有るので御手数だが付き合い願いたい。 気候変動についての活動を行っている、グレタ・トゥンベリ氏の著書『 No One Is Too Small To Make a Difference 』を読んだ。 本稿は、その感想と気候変動  ( 気候危機 )  について思う事を徒然と書いていく。 先ず、本の感想について。 私はこれを読んで、「こんなシンプルな英文で通じるのだ」と凄く感心したし、もっと英語に関して力を抜いた方が良いのだなとも思った。 この辺りについて余り話を巡らすと、教育の問題になり、テーマとズレてくるのでこの辺りで辞めておくが、内容は極端ではあるが、確固たるエビデンスに基づいている。 もっとこの手の書き手が日本にも存在すればいいと思うし、石川優実なんかのフェミ系が代表例だが、最近の人文系の人は数字が読めないバカが多い。 バカとは言い過ぎかも知れない。然し本当に文章や文脈が読めないし、統計学も勉強して居ない。 大学の経済学部でも、高校数学は学ぶし ( 実際私の母親は経済学部で学んでいるが、それに従い、数学を学び直した。私も釣られて数学を学んだ ) 、そのレベルの教養を知りながら無視しているのか、単に疎いのか。 つまり無知だ。グレタの極端さについては後述するにせよ、彼女がこれだけのエビデンスに従って発信している事はもっと評価されていいと思う。 只、彼女の発想は的を得ているが、極端ではある。そこが具体的に行動に出ない人が居る所以だろうし、彼女の弱点だ。 例えば、車を止めろなんて言えば北陸の人間は困ってしまうし、発展途上国の人も困ることになってしまう。 私は環境問題は資本主義の抜け穴から生じると思っていて、そこの抜け穴を埋め合わせる資本主義も必要だとは思う。 只、福祉国家には反対する。何故かと言えば、私はリバタリアンだし、税金という形で巻上げた金で生活保護 ( 誤解を招かぬようにいえば、生活保護自体に反対なのではなく、制度に反対。そもそも私も自立の練習の為に生活保護を受けています。生活保護受給者も一枚岩ではありません )  やベーシックインカム、福祉を行うのは感情的に耐え難い。 気候危機の話に戻そう。グレタの主張は一理あるし、もっと大真面目に捉えられるべきだと思う側